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執筆者の写真篠原竜一

暇なときに 津田梅子~お札になった留学生~

スペシャルドラマ「津田梅子~お札になった留学生~」が放送された。日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、のちに女子教育の先駆者として活躍。新5,000円札の顔となる津田梅子氏。私は、子どもの頃、当時千駄ヶ谷駅前にあった「津田英語会」で3年間英語を学んだので、津田梅子氏には勝手に親しみを感じていたが、あの頃の自分が津田梅子氏の人生をもっと知っていたらと感じさせる素晴らしい内容だった。


日本は開国に踏み切った後、数多くの日本人を海外に派遣したが、アメリカ留学の歴史を語るときに忘れてはならない二人の日本人がいると私は思っている。


今回のドラマには登場しなかったが、そのひとりは、同志社大学の前身となる同志社英学校を創立した新島襄氏だ。新島氏は、徳川幕府による海外留学禁止令を犯して渡米し、フィリップス・アカデミー(マサチューセッツ州にある名門ボーディングスクール)に入学、1867年に卒業後は、リトル・アイヴィー(The Little Ivies)と呼ばれるリベラル・アーツ・カレッジの名門アマースト大学に進学、1870年に日本人初の学士の学位取得をした人だ。アマースト大学を訪問した時に、構内にあるチャペルに新島襄氏の肖像画と「友愛の光のやどり海こえて」という俳句が飾ってあるのを見つけた時にはとても感動したものだ。新島氏は、アマースト大学では、後に札幌農学校(現北海道大学)教頭となるウィリアム・スミス・クラーク氏と出会い、この縁でクラーク氏は来日することになったそうだ。


もう一人は、このドラマの主人公である1871年に「岩倉使節団」に随行した日本最初の女子留学生5人のうち最年少だった津田梅子氏だ。何と6歳の時のことだ。5人の女子留学生のうち、年長の2人は病気が原因で帰国することになったが、大山捨松氏、瓜生繁子氏、津田梅子氏(以下梅子)の3人は異文化での暮らしに順応していったそうだ。瓜生氏は、ヴァッサー大学でピアノを学び、1881年に帰国。大山氏は、同じヴァッサー大学を優秀な成績(magna cum laude)で卒業、梅子は、アーチャー・インスティチュートを卒業、1882年に帰国した。


ドラマでは、どんな相手に対しても自分の考えをしっかり伝えるように育てられた梅子が描かれている。梅子が帰国早々、日本の女性の地位の低さに驚くと共に、留学なんかしなければ、日本の考え方にいちいちおかしいと思うこともなかったと悩んでいた時期もあったことには考えさせられた。それでも梅子は、結婚していない女性を一人前として扱おうとしない日本を変えたい、その為に必要なのは、男性より劣っていると考えている女性の意識改革こそが必要であり、女性のための学校を創ることを決意する。1889年に再び渡米、フィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、セブン・シスターズ(The Seven Sisters)のひとつであるブリンマー大学で生物学を専攻し、卒業した。帰国後、1900年に梅子は念願だった津田塾大学の前身の「女子英学塾」を創設したのだ。


日本は開国するや否や、世界から学ぶために使節団を欧米諸国に派遣。このことが、その後の日本の発展に大きな影響を与えたことは間違いない。このドラマでは梅子の父親についてはその人物像について殆ど描かれてはいないが、1875年に麻布に農産についての書籍・雑誌の出版、農産物の栽培・販売・輸入などを事業とする学農社を設立、翌年には、学農社農学校を開校した人物として知られている。新島襄氏とも親しく、同志社、青山学院などキリスト教主義の学校の創設に数多く携わっている。


このドラマは事実に基づいて作られたものだが、フィクションなので、それぞれの場面での梅子の発言には脚色もあるのかもしれないが、「性別や立場が何であっても幾つであっても意志さえあればいつでも学べる。自分の頭で考え、自分自身で選択する力をつけ行動する。当たり前とか常識にとらわれない。自分の人生は自分自身でしか決められない。仲間と共に人生を作り上げていく」というのが梅子の考えだと伝えている。本当にその通りだと思う。


彼女が女子英学塾を創設してから122年。どんな相手に対しても自分の考えをしっかり伝えられるような教育は女子だけに必要な教育ではないことは明らかだ。梅子は1929年に他界したが、何故戦後の日本の教育が梅子の考えていたリベラル・アーツとは全く違う方向になってしまったのか?そして、彼女が今生きていたら、現在の日本の教育についてどう思うのだろうか?そんなことを今考えている。


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